1896 Werder pistol
1896年にヨハン・ルードヴィヒ・ヴェルダーにより制作された後装式ライフルは優れた設計によりネジ一本外すと容易に分解できるほど高度なモジュール化がなされておりメンテナンス性に優れていた。
その設計を流用し作られたのがヴェルダーピストルである。フォーリングブロックアクションが使用され弾薬は11x35mm弾か11x50mm弾が使われた。
設計は優れていたが11x50mm弾を使うと強度不足によりすぐに壊れてしまう問題があり、それが理由で普仏戦争では使用されなかった。
超軽量型マキシム機関銃
初期の機関銃として大成功を収めたマキシム機関銃であったが重機関銃というだけあって重量が重くどうしてても機動力に欠けてしまっていた。
そんな折1895年にコルトブラウニングM1895が重量約16kg(三脚を除く)と破格の軽量で登場をしたのを受け、マキシム機関銃の設計者のハイラム・マキシムは自身の機関銃の徹底的な軽量に着手した、そこで生み出されたのがエクストラライトマキシム(超軽量マキシム)である。
エクストラライトマキシムを片手で持つハイラム・マキシム氏、本体と三脚合わせても32.7kg(本体重量12.5kg 三脚重量20.2kg)と当時としてはかなり軽量だった。
軽量化をするにあたってまず水冷式から空冷式へ変更しバレルジャケットを小型化し、バレル部分には下方向に4つの空冷用の穴が開けられた、だがこの設計ではバレルの冷却を十分に行うことができず400発までしか安全に動作することが保証されない極めて不安定な銃となってしまった。
通常のマキシム機関銃から設計を流用しているため当然バレル交換などすることはできず結果的にサンプルとして数挺が販売されるに留まったという。
通常のマキシム機関銃よりスリム化されかなりの軽量化がなされていることがわかる。
Bernardon-Martin
1907年に世に送り出されたされたバーナード・マーティンはフランスで初めて商業目的で量産された半自動拳銃である。
主な競合モデルはブラウニングM1899/1900でそれらの銃同様の.32ACPを使用しており、違いとすれば初期のモデルは7発の固定マガジンを備えていたことである。
その後の改良で着脱可能なボックスマガジンになり1909年には大幅なモデルチェンジがなされ、スライドにセレーションが追加されトリガーガード前方にテイクダウンレバーが追加された。これによりメンテナンスが容易になったとされる。
しかし同時期に登場した他の半自動拳銃との違いがあまりなく市場では埋もれた存在になったことにより商業的に失敗し、製造会社も1912年に解散されてしまったようだ。
Bernardon-Martin M1907
Bernardon-Martin M1909 テイクダウンレバーが追加されている
Model 45A
1945年マニラにて珍妙な銃が確認されている、製造年や設計者は不明だがモデル45Aと名付けられたこの銃は弾薬や弾倉を従来の銃と統合し様々な任務に対応できる歩兵用のライフルをコンセプトとし試作されたようである。
弾倉や弾薬はBARと同じものを使用し近代的なピストルグリップを備えており、スコープはシュタイアーAUGのようにキャリングハンドルに搭載されM9A1小銃擲弾を発射することができた。バレルは写真のようにワンタッチで取り外し可能でありメンテナンス性も優れていたようである。
しかしモデル45Aは情報が少なく、そもそもレシーバーが写真の通り薄いため射撃すらできない可能性が高く、作られていたとしても実射による試験がされていたかは疑問が残っている。
Orita Model1941
第二次世界大戦中ルーマニアは枢軸国として参戦し主にドイツとチェコの武器を使用していた。そんな中1941年に自国で短機関銃を設計、生産することが決定しチェコから技術顧問としてレオポルド・ヤセックを招き入れ自国からはニコラ・ステルバと陸軍大尉のマリン・オリタが参加した。そうしてできたのがオリタM1941である。
全体の設計はドイツのMP38から影響を受けており作動方式は反動利用方式で32発装填のボックスマガジンを使用し、発射速度は毎分600発で弾薬は9x19パラベラム使用した。
欠点は製造コストが高いことであったが信頼性が高く、後継モデルのM1948は製造が1970年代まで続けられPM md63とともに主力武器として使われ続けたのだった。
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