Mauser Model 1889(1889 Belgian Mauser)
1880年にマウザーM71/84の一通りの作業を終えたマウザー兄弟は設計チームとともに無煙火薬を使用する新型ライフルの設計に着手した。兄のウィルヘルム・マウザーが製作途中に亡くなってしまったため目標であった1882年までに作業を終えることができず、ドイツ小銃試験委員会が結成され委員会の要求によりパウル・マウザーはストックを補強しバレルシュラウドを搭載したモデル(M1889)と前身であるgew71からのデザインを引き継いだモデル(M1891)の二つのモデルを設計し、委員会に提出した。しかし自国の正式採用ライフルは委員会が設計したGew88となり、採用されることはなかったが、M1889はベルギーで、M1891はアルゼンチンで採用され、その後の多数の国で配備されることとなった。
Gewehr 41 (M/W)
1940年頃、ドイツ国防軍は歩兵一人あたりの火力を高めるには半自動小銃が必要と感じ、銃器メーカーに対して半自動小銃の制作を依頼した。
制作においての条件は3つあり
・作動方式はガストラップ方式であること
・銃表面にはボルト以外の動作するものがないようにすること
・万一のときのためにボルトアクションでも射撃できるもの
であった。
その制約中、マウザー社とヴァルター社がそれぞれ2つの半自動小銃を制作した。Gewehr 41(M)とGewehr 41(W)である。
Gewehr 41(M)は制約をすべて守り、機関部にKar98kのようなボルトハンドルがついていた。しかし機構が複雑になりすぎて信頼性に乏しく、重量も重くなってしまった。その結果6673挺制作され、生産が終了した。
Gewehr 41(W)はボルトアクション機構がなく、単純な半自動小銃として仕上がっていた。しかし作動方式が災いし、かなり信頼性が低く、東部戦線のような過酷な環境下ではそれほど稼働率がよくなった。その後ヴァルター社は赤軍から鹵獲したSVT-40を参考にしショートストロークピストン方式へ変更を加え、クリップ装填方式だったマガジンを着脱式にしたGewehr 43を制作した。
装弾数は互いに10発で、マガジンは着脱せずクリップ装填方式である。
モシン・ナガン M91
モシンナガンは世界的に有名なボルトアクションライフルであるが上記写真のような奇妙なバリエーションが存在する、クラコフと呼ばれる人物が第二次世界大戦前に試作した5発装填できるライフルグレネードである。
射撃の際はリボルバー方式の薬室に5発グレネードを装填しライフルグレネードと同じ要領で発射する。弾倉の回転は自動であり発射時のガスを利用したものだった。
しかし反動制御や堅牢性、動作性に不安定な部分があり、乾燥重量で約15kgと一人の兵士が扱うにはとてもではないが無理がある代物であったために、結局採用されることはなかった。(その際銃器設計に対するアドバイスが行われるようであるが本銃には何一つアドバイスがなかったという)
MP 34
1919年ヴァイマル共和制下のドイツではベルサイユ条約で軍備や武器生産の制限を受けるようになった。そこで1929年にラインメタル社はそれら制限を回避するためスイスのゾロトゥルンにある武器製造会社を買収し秘密裏に新型短機関銃の開発、生産を開始したが、ゾロトゥルンでは設備的問題で大量生産には適さなかったためシュタイアー社に生産を依頼することにした。このときS1-100と呼ばれた短機関銃はMP 34として各国へ配備されることとなる。質の高い材料を使用し、最高水準を保つように生産されたため「短機関銃界のロールス・ロイス」と称されていた。
それまでの短機関銃と同じオープンボルト方式で変わった特徴といえばジャム防止のためにマガジン挿入口が若干前に傾いていることくらいである。弾薬は主に9x19mmパラベラムのほか9.23mmシュタイアー弾と9.25マウザー弾を使用し、装弾数は20発か32発のボックスマガジンやハンドガン用の8発装填マガジンも使用できた。発射レートは毎分600発である。
生産されたモデルは主にオーストリア警察にシュタイアーMP30の名前で配備され軍にはシュタイアーMP34の名前で配備された。その後オーストリアを併合した後ドイツ軍にも配備されたMP34(ö)の名称で配備された他、ポルトガルにも販売が行われ1970年代までポルトガル植民地における治安部隊に配備が行われていた。欧州の他にチリ、ボリビア、エルサルバドル、ウルグアイ、ベネズエラに輸出され、南米市場では45.ACPを使用するモデルが販売された。中国にも限定的ではあるが7.63x25マウザーを使用するモデルが輸出された。
余談ではあるが1930年代後半に日本軍も短機関銃の研究のために少数を購入したという。
CB-51/CB-52/CB-57
第二次世界大戦後、再軍備を図っていたスペイン陸軍は新たなアサルトライフルの調達を決定し、銃器設計士ホアキン・デ・ラとカルザダ・バヨ社はStG44をベースとしたCB-57を試作した。
以前もカルザダ・バヨ社はCB-51とCB-52というそれぞれのプロトタイプを設計しており、それらをベースとして設計された。
外見としてはピストルグリップがなくなったStG44のような見た目で弾薬とマガジンの変更がなされた。
オリジナルであるStG44は装弾数30発であったが20発に減少し、使用弾薬も7.92x33クルツの他7.62x51NATOや7.92x40(CB-51とCB-52のみ)、7.92x51を使用し弾薬変更に伴う内部機構の変更などなされたが、ほとんどはStG44のままと言ってもいい代物で、他に違いがあるとすればセレクティブファイア方式でなかったことくらいだろう。
1957年にプロトタイプが完成し、セトメモデルAと競合にかけられたが、結局関心が得られず採用することはなかった。
その後同社が手がけたCB-51含めるプロトタイプはスペイン政府が情報をあまり公開しなかったため、歴史に埋もれた銃となってしまった。
CB-51(7.92x33仕様)
CB-51(7.92x40仕様)
CB-52(7.92x51仕様)
CB-57は画像がなかった。残念。
Steyr pieper M1908/34
ベルギーのニコラス・ピエパーはコルト・ベスト・ポケットが成功したのを知り、小型拳銃の将来に可能性を感じ.25ACPを使用する独自の小型拳銃の設計に着手した。そして特許を1907年に取得しオーストリアのシュタイアー社で生産されたシュタイアー=ピエパーM1908/34はその特異な特徴とは裏腹に1930年代まで生産される非常に成功した銃となった。
その特異な性質とは6発装填のマガジンを持つにも関わらずブレイクバレル方式も有しており直接装填し射撃することができることで、何故このような機構を取り入れたかは不明だが現在の銃にはあまり見られない特徴である。また、7.65mm弾を使用するM1908は現代的なコッキングインジケーターがついている。
後ろの出っ張りがコッキングインジケーターで装填されているときはピンが出っ張る仕組みである。
本銃は1930年代まで生産されたか1920年代で生産が終わったか資料によりまちまちで、成功したわりには生産終了がはっきりしていない銃である。
余談ではあるが現在は状態がいいものは960$で取引されているらしい・・・(日本円でだいたい11万円※くらい)
※2018年7月23日時点